私のもみほぐしの技は、
いかにして出来上がったか。
人生いろいろ
(1章~8章)


第1章
「生き地獄」

私自身が高校一年生の頃から、
身体がこりまくっていました。
その原因は空手部での事故です。
地獄の様な、日々でした。

 

N私立高校 空手部 強豪校、
事故と書きましたが、今なら暴行です。

死人が出ても、不思議ではない練習でした。

組手で、先輩にボコボコに、
ぶっ飛ばされます。

顧問の教師が参加して、
股間カバーをしているといえ、
禁じ手の金的(股間)に、
蹴りを入れていました。
(股間カバーしていても、
直接攻撃されると、
悶絶します)

何でもありの、狂気の世界です。

 

 

3年生のK先輩は、高校卒業後、
89〇になったそうです。

K先輩の、髪の質は剛毛で、
トップが10センチくらいの、
超長い角刈りでした。

空手は全国規模に強く、
見た目は、仁王立ちした、
熊のようでした。

 

その先輩が、
一年生の両足をつかみ、
プロレスの様に、
グルグル振り回して、
道場の床に、
すっ飛ばされる事もありました。

 

道着の片袖が、
肩から引きちぎれた事もありました。

空手着は柔道着ほど、
厚くはないですが、
簡単に引きちぎれる、
弱い生地ではありません。

それが振り回されて、
引きちぎれた事もありました。

 

片袖のない空手着で、
ファイティングポーズを、
とる私・・・
シュールだったと思います。

 

同期の仲間は、
先輩に足首もたれて、
グルグル振り回され、
すっ飛ばされた時、

運悪く、柱の保護カバーのない場所に頭をぶつけ、
血だらけになっていた事もありました。
(当然病院送りになりましたが、責任問題にはならず。
異常な学校、異常な時代、わけわかりません)

 

「噴水人間」事件は、衝撃的でした。

水を飲まされて、ぶっ飛ばされて、
飲んだ水を勢いよく、
吐き出しているのを、
見たのです。

 

これは、
退部を申し出たある1年生に、
3年生の先輩が退部条件を付けました。

それは、
1週間の練習の見学です。
その見学での出来事でした。

 

見学だけだと、思っていました。

しかし先輩は、
4リッターの水を一気飲みさせたのです。
制限時間は1分。

見学者は達成出来ませんでした。

 

そのとたん、
先輩の、中段蹴りが、
見学者の、
みぞおちに決まりました。

見学者は、
水を吹き出しながら、倒れました。

これが、噴水人間事件です。

 

ちなみに、その見学者は、
学校自体を辞めてしまいました。

この件があり、
退部したくても、
皆言えなくなりました。

 

 

私自身は、先輩との組手で、
空手の禁じ手である、
顔面攻撃で、負傷した時の事です。

先輩の攻撃で、
私は鼻血を垂らしました。
傷が深いためか、
鼻血量が尋常ではなく、

「スッー」と、
弱めの水道の様に、
血が垂れました。

 

「血をたらすんじゃねー!」

 

という先輩の指令を受け、
流れる鼻血を吸込みましたが、
吸込みきれませんでした。

それで、血が落ちるので、7
道着の前面は、返り血を浴びたようになりました。

練習後、
空手部の同級生は、
私の道着を見て、
真顔で「切腹したみたいだ」と言いました。

この時、私は、
母に心配させたくなくて、
道着は自分で洗いました(漂白)。

 

「どS」と言う表現がありますが、
甘い言葉に感じます。

「狂気のS」です。

 

 

話が長くなりましたが、
空手部の悪口を、書きたいわけではありません。

空手部の練習中の暴行のおかけで、
もみほぐしの効果を、
知ることが出来たのです。

 

軽い自動車事故のような、
空手部の練習で、
私の左の首と、
左肩がおかしくなります。

 

常に、左の首の筋肉がこわばり、
左手は、腕全体を水平に、
長く上げられなくなってしまったのです。

 

事故の後遺症という認識だったので、
接骨院で治療をしていましたが、
改善されませんでした。

その後、整形外科に行きましたが、
レントゲン撮って、湿布を頂いただけでした。
(整形外科に否定的な意味ではありません、
日常的にお世話になっております)

カイロプラクティック・整体にも行きましたが、
症状はよくなりませんでした。
(この症状に関しての話です、
悪口の意図はございません)

 

しかしながら、
症状が緩和される時がありました。
それは、
友達との「もみっこ」です。

「もみっこ」とは、
代わりばんこに、マッサージしあう事です。

 

若さの為、何の障害もなく、
好みの「もみ」の希望をストレートに、相手に要求していました。

また「もみっこ」の相手も、
「もみ」の希望を私に伝え、
「そうじゃない」 「あぁ、そこ!」とか言っていました。

 

色々な治療を受けても改善されなかったのに、
友達との「もみっこ」で、
楽になることに気が付いたのです。

 

結果的に「もみっこ」から、
私自身の体は、もみほぐしを、
要求する身体になっていたのです。

 

 

その後、
本格的なもみほぐしを、
体験する時がきました。

 

17歳の時、ディスコブームでした。
(年齢制限は無いに等しかったです)

それで、
歌舞伎町に行く機会があり、
本格的なもみほぐしを、
歌舞伎町のサウナ・フィンランドで体験し、
あまりの気持ちよさに感動したのです。

友人は、ディスコにはまりましたが、
私の目的は、もみほぐしでした。

 

そんなある日の事です。
ディスコに一緒に行っていた友人は、
楽し気に、異性と話していました。

私も、異性との交流は気になりましたし、好きでした。

 

だけど、それよりも、
踊りまくって、
汗だくになっていたので、

サウナ・フィンランドに行って、
一風呂浴びて、
マッサージされたくて、
イライラしていました。

 

それが原因で、友人からは、
チームワークが取れないみたいな理由で、
ディスコに誘われなくなりました。

それでも私は、
歌舞伎町に通いました。
サウナ・フィンランドで、
もみほぐしを、受ける為です。

17歳にして、
当時ブームのディスコより、
「もみほぐし」
大好きっ子になっていたのです。

 


第二章

「渋谷で店舗経営を学び、
本場タイで、
タイ古式マッサージの修行」

 

それから月日は流れ、
28歳になり、
リラクゼーションの業界に、
経営者として関わることになります。

 

メンズエステを、
渋谷の円山(後に道玄坂に移転)で、
約15年間経営いたしました。

 

当時、創業に出資して頂いた方の勧めで、
色々な経営者セミナーに参加していて、
経営スキルを学んでいました。

 

特に勉強になったのは、
日創研の「企業内教育インストラクター養成コース」で、
経営者に必要な事を、
8か月間勉強いたしました。

悔しくて泣いたこともある位、
一生懸命取り組みました。

この学びのおかげで、
約15年間、
渋谷で商いが出来たと思います。

 

この時の店舗経営の経験が、
「富の庭」を運営する思いに、繋がっています。

 

その渋谷時代、

「もみ師になる!」

その為に行動します。
それが、
タイ古式マッサージでした。

そして、本場タイに行き、
タイ古式マッサージの、
総本山である、ワットポーで、
資格を習得してきました。

それが、もみっこ以外の、
「もみ師」としての始まりです。

 


第三章

「人生の一番の底を見る」

 

当初は、タイ古式マッサージを、
渋谷・百軒店で開業する予定で考えていました。

 

百軒店に、
ワンルームマンションを2部屋、
隣同士で所有していました。

 

1部屋を受け付けで、
1部屋を施術室で、
私一人で運営するつもりでした。

3階の部屋の窓からの風景は、
左手にラブホテル、
右手には、一戸建ての歯医者が見えていました。

そんな、百軒店の混沌とした、
いかがわしい夜に風景が、
大好きでした。

 

こう書くと順調な人生に感じると思います。

そんな事はなく、
人生の底を経験しました。

この時はこれが人生の底だと、
思いました。

 

ところが、その後、
違う系統の底を、見る事になります。
デジャヴかと思いました・・・
底辺のレベルが違いました・・・

大好きなビールは、
飲むことが出来ましたが、
世界が腐っていました・・・

情けなくて、
泣こうと思っても、泣けないのです。
涙が出たら楽になれるのにと、思いました。
泣けない辛さを、人生で初めて経験したのです。
泣けない理由は、自業自得で行った場所だからでした。

 

もみほぐしと関係のない話になるので、
ここでは詳しい事は書きません。
(いつかブログに書きます)

普通に生活していれば、見る必要のない光景・・
私の人生の底の期間でした。

 


第四章

「もみ師として自信がない」

 

人生の底を経験した後、違う問題が出てきます。

 

開業にあたって、
いわゆるマッサージと、
もみほぐしの差に悩みます。

日本式マッサージを名乗るには、資格が要ります。

もみほぐしの店を経営するには、
資格がないと生き残れないと思いましたし、

 

なにより、

「自分に自信がなかった」

 

人生の底を経験するまでは、
慎重という言葉を、
意識したことがありませんでした。

カッコつけた言い方をすれば、怖いもの知らず、
見かたによっては、ただの馬鹿です、

どちらかと言うと馬鹿よりでしたが、
ある方のサポートで、渋谷では一番つらかった、
創業期を乗り越えられ、繁盛店に出来たのです。

 

しかし今回は特別でした、
人生の底を経験して、

自分に自信がなくなり、
前に進めなくなってしまったのです。

それが、一番の理由で、
「新宿柔整鍼灸専門学校」に入校しました。

 

しかしながら、
筋肉と骨の名称を覚える、
暗記中心の授業と、

柔道の形の授業に嫌気がさし、
1年間で中退してしました。

 

簡単に中退と書きましたが、
学費と親子三人の生活費で、
軽く1千万円は、消えました。

当時は底を経験した後とはいえ、
ボートはまだ所有していて、
艇庫代など、身の丈以上の出費がありました。
(その後売却)

 

無駄な投資を私が払うのは当然ですが、
お金の問題もさることながら、
学校入学を選択した事が大問題でした。

振り出しに戻るのではなく、
マイナスになったのです・・・

 

妻としては、
「40超えたオッサンが、
なにやってんだよ」、
みたいな感じだったと思います。

 

 

それと、
私は、周りの人の期待を、
バッサリと裏切りました。

 

入学にあたって、
普通受験では自信がありませんでした。

そこで、
経営セミナーの仲間で、
某有名チェーンの、接骨院のオーナーに、
「新宿鍼灸柔整専門学校」の、
当時の教頭を紹介して頂きました。

まず、
紹介者の顔をつぶしました。

 

 

そして、実家の母には、
「がっかりした」
と言われるし、

 

一番の被害者は、妻と娘でした。

入学式では、
高卒のフレッシュな若い子の中、
40歳を超えたオッサンの私は、
子供を連れて入学式に参加しました。

そして、
入学式の帰りに、
新宿御苑で桜を見ました。

この時、娘はベビーカーに乗っていて、
桜が満開の下で写真を撮り、
私はビールを飲んで、
明るい未来を創造していました・・
と思います。

 

妻は、
「パパの人生って面白いね」
と言って、ニコニコしていました。

 

妻のニコニコ顔から、
約1年後に中退・・
当時の家庭内の雰囲気は・・・でした。

 

 

しかし、しかしです。
「新宿鍼灸柔整専門学校」を、
辞めた事により、

自分に自信がなくて、
資格があればどうにかなるという、
他力本願的な発想から、

 

「裸一貫!
技術を身につけてやるぜ!」と、

 

私の、いい意味でも、
悪い意味でもある、
単純な性格で、
開き直りの精神が顔を出し、
行動力が、湧き上がって来ました。

 


第五章

「新宿・歌舞伎町グリーンプラザ」

 

もみほぐしの修行先を探している時に、
渋谷時代のキャストに、

「日本一指名を取る人がいるよ」

と言われ、
凄い施設をご紹介して頂きます。

 

それが、
新宿・歌舞伎町の、
グリーンプラザでした。

 

結果的に、それが大正解で、
もみ師としての基本は、
新宿・歌舞伎町グリーンプラザで仕込まれました。

 

残念ながら、
ビル老朽化の為に、
閉館してしまいましたが、
歌舞伎町に君臨する、
昭和の贅沢な、
大人のスパランドでした。

 

男女は別れていたので、
艶っぽい雰囲気の店もありました。

チャイニーズドレスの、
中国人女性が、
店頭で呼び込みをしている、
チャイニーズマッサージの店や、

韓国アカスリマッサージもありました。

 

その中の一つに、
マッサージルームがあり、
そこで修行いたしました。

 

働く施術者のレベルが、
ハンパではなく、
凄いの、一言でした。

日本一の、
施術者のレベルの、
高さだと思いました。

本当に、夢のような
オールスターの、
施術者の集まりでした。

 

アーティストに例えるなら、
日本武道館に、

玉置浩二さんと、サザン、グレイ、
聖子ちゃん、Xが、

一気に集まった様な、
ありえない、夢のような、
凄腕の、施術者の集団でした。

そんな「ほぐし師」達の技術を、
間近で観れた事は、
プライスレスな、
特別な体験でした。

 

また、客層の高さが施術者達を成長させていて、
毎日の様にサウナを利用している方達の要求は高く、
かなり鍛えられました。

 

・「女王」

私の師匠は、横内さんと言う、
中国語訛りの女性でした。

 

当時の横内さんは、日本一指名をとる「女王」です。
(マッサージ室は、温浴施設専門の、
運営会社が管理していて全国統計による)

 

 

女王は、
掃除を免除されていました。
というか、
誰も指摘できなかったのだと思います。

なぜなら、グリーンプラザでは、
指名の少ないもみ師は、
下に見られます。

指名の多いもみ師は神、
指名の少ないもみ師は・・・
ゴミは大袈裟ですが・・・

とにかく実力が、
幅をきかせている職場でした。

 

女王は、
皆が掃除している時間に、
遅れて出勤してきます。

私は女王が出勤してきて、
姿がお見えになると、

誰よりも先に、大きな声で、

「おはようございます!!!」

超全開の、ニッコニコの笑顔で、
ご挨拶いたしました。

日常では見せない、
私のとっておきのスマイルです。

 

そして女王は、
皆が掃除をしている中、
ご自分のマッサージベットの上にのり、
髪を束ねてから、
キツキツの弾性ストッキングを、
片膝を立てて履いていました。

それが、女王のルーティンです。

 

 

掃除に参加しない女王の代わりに、
女王のマッサージベット周辺の清掃と、
マッサージベットの拭き掃除・消毒は、
私がやっておりました。

 

それから、
女王のお客様が帰られた後は、
後片付けの手伝いを、
率先してやりました。

 

 

女王は、2リッターのペットボトルを、
直飲みで、毎日1本飲みます。

私は女王の為に、
2リッターのペットボトルを、
グリーンプラザの、並びのローソンで買って、
毎日用意しました。

もちろん、冷えた状態で、
お渡しします。
(私の休日には前日に、
その分をお渡しました)

 

私は、
ペットボトルの買い出しも、
掃除も、他色々と、
自発的にやっていました。

女王に頼まれたわけでは、
ありません。

 

そして、徐々に、
私は女王に気に入られ、
多くの技術を学びました。

 

女王に教えて頂いた技術が、
私の「もみ師」としての基礎であり、
財産であります。

女王に出会っていなかったら、
「もみ師」としての、
私はないと思います。

 

 

それと、
グリーンプラザを紹介してくれた、
渋谷時代のキャストに、感謝・感謝です。
どうもありがとうございました。

 

・指名

一生忘れる事の出来ない、
超プライスレスな事がありました。
ある方からの指名です。

 

そのお客様は、グリーンプラザの常連さんですが、
十数年間、指名した事がなかったそうです。

私が初めての指名だったのです。

それがあの旭川出身の超スーパースター!
玉置浩二さんです。
私はこの方に、特別な思い入れがありました。

♪あの~

デビユー曲に痺れたのは当然として、

あの男の色気・・エロス・・

いい言葉が見当たらないのですが、
艶っぽい雰囲気が大好きで、
髪型を真似した事もありました。

その方からの指名です・・・

正気を保つのに、
汗だくになりました。

 

ちなみに、当時から私は、
「よし」という名で出ておりました。

 


第六章

「もんで、もんで、もみまくる!
グリーンプラザとの決別」

女王から中国語訛りの日本語で、
こう言われました。

「女もみなさい」

 

グリーンプラザでは、
マッサージ室が男性専用フロアだったので、
男性しか、もめませんでした。

女性フロアもあったのですが、
同性しか入る事が出来なかったのです。

それで、女王に「女もみなさい」の、
理由を聞くと、
骨格・脂肪・筋肉、全てが違うと・・・
要点は、

女性をもむには、
指先の感覚を磨いて、
「微妙な力加減」だ、これは、
なんとなくわかりましたが

「指に目をつけろ」は???でした。
それを理解するには、とにかく、
数をこなすしか方法はないと・・・

結論として、
女王でも教えることが、出来ないから、
女性を数多く、
もみなさいという事でした。

 

それで私は、
グリーンプラザとは決別して、
修行先を探すことにしました。

 

「女王様!
ありがとうございました!
もんで・もんで、もみまくります!」

単純な私は、そんな気持ちでした。

 

 

その時です。
リラクゼーションマッサージ業界に、大異変がおきていました。
それは、低価格帯の店が増えたことです。
しかも全国規模です。

 

リラク(現りらくる)の勢いはすさまじく、
当時全国に400店舗位あったと思います。

リラクが出店するエリアでは、
客数が激減した、
温浴施設も出てきました。
(グリーンプラザは影響ありませんでした、
客層が違うからだと思います)

標準価格の店が潰れた話も聞きました。

 

当時のリラクの特性として、
今までの常識では、ありえない位

「とにかく、お客さんが多い」です。

そりゃそうです。
広告戦略が良かったのは当然として、立地場所が良く、
店舗の外観がまともでした。

しかも、超低価格!
ここがポイントで、ありえない安さに、
私も驚きました。

 

という事情で、客数の多さから、
修行先に、りらくを選びました。

私は、もんで・もんで
もみまくりました。

 

在籍していた店舗で記録も作りました。

普段私は、夕方出勤で、朝まで勤務です。
この日は13時に出勤して、
閉店の朝5時までもんでいました。

 

なんと、1日13名のお客さんを、
もみほぐしたのです。
普通、多くて5・6名位ですから、
この日は、特別です。

そして、
お客様には申し訳なかったですが、
最後の方は、
半分寝ながら、もんでました。

 

話がそれましたが、
なにが言いたいかと申しますと、

日々!毎日・毎日、
コンスタントに、
もんで・もんで・もみまくりました。
(普通のマッサージ店なら暇な日があります)

集中して短期間で、
もみまくった結果、
私のもみほぐしの技は熟されたのです。

1000本ノックと言う、野球の言葉があり、
ウィンドサーフィンでは、
1000回ジャイブと言う言葉があります。
それに近いです。

集中して1000という数字は、
ポイントなのかもしれません。

客数の多いリラクだからこそ、
体力の限界までもんで、
練習が出来たのです。

普通の店舗ではありえません。

 

だから、
色々な揉み方を集中して、
試す事が出来ました。

この経験が、
私の技術をレベルアップしたのです。

 

ありえない数のお客様を、
体力の限界まで、
集中的にもみほぐした成果でした。

 


第七章

「親の老後は俺が見る」

 

もみほぐしの1000本ノック修行が終わり、
私の技がいい感じになってきた時に、
親の介護の問題が出てきました。

 

父が停車していたバスに、
車で後ろから衝突して、
免許証を返納する事になったのです。

以前から私は「親の老後は俺が見る」
と言ってきました。

理由は散々、
親に心配かけたからです。

 

私は、高校に2回入学しました。
そして、
27歳で高校を卒業しました(通信制高校)。

 

17歳で高校を中退した時は、
母に泣かれました・・
この時の、悲しい母の顔が、
忘れられないのです。

 

それ以外に、

 

バイクで事故って、警察から家に電話がかかって来たり・・・
喧嘩して顔に青アザを作って、家に帰って来たり・・

台風が来ればサーフィンに行く、
父に「お前は馬鹿か」と言われながらも、
台風直撃でも海に行く・・・

とにかく、
心配ばかりかけてきました。

 

それで私が30歳を超え、
生活が安定してから、
親の老後は私が見ると、
言い続けてきたのです。
(私は3人兄弟の長男)

 

 

話しがそれましたが、
父の免許証の返納を期に、
単純な性格が顔を出し、
決断いたしました。

 

「介護を実施で学んでやるぜ!」
です。

 

それで、介護ヘルパー2級の資格をとり、
介護施設に就職したのです。
(その後、介護福祉士の資格をとりました)

私は、夜勤専門でした。
自らを「夜の男」と言っていました。
派遣で働いていた期間もあり、
13か所の老人ホームで仕事しました。

 

最後に勤めた特養(特別養護老人ホーム)は、
母が入居するかもしれないと思い、
(特養は低価格、普通は待機待ち)

だから、
特養に就職し、介護施設勤めは、
特養が最後だと思っていました。

 

 

両親への援助は、
父が免許を返納した為に、
両親を連れて、
買いだしの援助から始めました。
これは、7・8年続けていました。

 

その後、在宅介護の手伝いも加わり、
通いの在宅介護では、
見切れない状態になり、
両親を同室で、介護施設に入居させました。

そして、
入居して約2か月で、
父がぽっくり亡くなりました。

 

母の現在は、特養ではなく、

「今の母にあった、環境の良い施設」

に、入居できたので、
私が特養勤めを、
続ける理由がなくなりました。

 

約8年間の、
介護施設勤務でしたが、終わらせる時が来ました。

私にとっては、
我慢・我慢の連続なんて、生易しい表現でなく、
我慢を100回書きたい位の、
8年間でした。
よく続いたと思います・・

 

親の為と始めた介護施設勤めも、
精神修行という意味では、
いい経験でした。
そう思いたいです・・・

いいように考えるなら、
自分の引き出しが、
増えた事になったからです。

 

これからの人生は、
心がNOと言う事は、
しません。

素のまま、ありのままの自分で、
生きていけるようになったのです。

ただ、
家族がいるので、
100%自分の人生ではありません。

順調に行けば、
娘はあと約4年で社会人になります。
娘が社会人になってからの、
人生設計も始まったと思っています。

 

 

・介護施設勤めで、
私のもみほぐしはどうなったか?

介護の仕事の間、もみほぐしは、
家庭内はもちろん、
出張でやっていました。

 

もみほぐしの修行時代に、
私を指名してくださっていた方々の、
ご自宅に伺って施術しておりました。

 

私のもみほぐしの技は、
介護生活の8年間で、
丁度いい感じに、熟されています。

 


第八章・最終章

「遠回りしてたどり着いた、富の庭」

私の夢は、
もみほぐしのお店をする事でした。

それも、
私一人が働いている店を、
やりたかったのです。

渋谷時代から、そう思っていて、
長い間、温めていた考えでした。

 

私の人生、
いい時も、悪い時もあって、
遠回りして・遠回りして、
ここまで来ました。

 

・誕生「富の庭」
スタートライン

この九十九里の家は、17年程前に、
歩いてサーフィンに、
行きたくて建てました。

家族の場所でもありますが・・・
今はサーフィンよりも、

心も身体も疲れた自分を、
癒す場所、

そして、
一人でリラックスできる場所が
ここ九十九里の家です。

私自身が、癒される場所なのです。
そこから、考えが発展していきました。

 

それは、
「もみほぐし」で身体が楽になるのは、もちろんとして、

心も解放されないと、
本当の意味での、
リラックスにならないという考えです。

 

ようやくたどり着いたのが、
「富の庭」で、
心と身体を解放することです。

やっと実現出来ました。

 

遠回りして・遠回りして、
ようやく
スタートラインに立った状態です。

一生続ける仕事として、
人生をかけて、
「富の庭」でもみほぐしに取り組みます。


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